佐世保の加害女児の分析が出たんだそうで。
前にも書いたが、どうもこの子に対するマスコミ評や分析結果を見ていると、居心地が悪くなるんだよね。自分(の子どもの頃)のこと言われてるようで。
他にもそういう人いないだろうか。と思ってGoogleで「佐世保 女児 分析 自分も」で検索してみたのだが、親御さんがご自分の子どものことを案じる日記や掲示板への書き込みしか見つからなかったっす。
> 決定は、女児は聴覚的な情報より視覚的な情報の方を処理しやすい特性があることを指摘。
> 女児は小学4年の終わりごろから、不快感情のうち、怒りの認知ができるようになったが、それを適切に処理できなかった。感情を抑えるか、相手を攻撃して発散するという対処しかできなかった
えーと。私、今も結構そうなんだけど。大丈夫なんだろうか。
そんな私でも、ただ抑えるだけじゃなく、ただバクハツするだけじゃなく、どうせわからないかもしれない相手に一応筋道を立てて説明してみる余裕が、まあ年々増えてると思うんだけど(まだ増える余地があるのかよぉぃ)。
いつ、どうやってまあまあまともな大人になったんだろう。謎。
ていうか、本当に「まあまあまともなオトナ」なんだろうか>自分。
小出しにブチ切れてて、自分で自分の人生をややこしくしてるんじゃないだろうか。
自分の決定が今、正しいなんて自信、いつもこれっぽっちもない。
いつも後づけで「正しく」してるだけだ。
せめてそれだけはやらなくちゃと思ってる。でも。
自分で自分のバラ撒いた地雷を片づけて他人に誉めてもらうのって片づけないよりはマシなだけなんじゃないかと思うと、我ながら寒くなる。
--
リンク張り替え。TB追加。
少なくとも私だけじゃなかったらしいので。もうこっちは読まれてるかもしれないけど。
分析結果の要旨から。
また、聴覚的な情報よりも視覚的な情報の方が処理しやすい特性により、聴覚的な情報が中心となる会話によるコミュニケーションでは、文脈理解などの不器用さが際立ち、相手の意図を理解して返答したり、自分の気持ちをうまく表現したりできなかった。
このような女児の不器用さは周囲に気づかれておらず、家庭でも学校でも女児の表現できない思いが酌み取られることはなかった。
今でも言葉のことを考えると頭が痛くなる。特に音声言語のことを。
それでも聞くことはできているが、話すのは苦手というのは、いまだにそうだ。
つい最近も、丁寧に説明したいある件を、感情が強すぎて「何を何から話せばいいのか分からなくなって黙ってしまう」ということが続いている。
被害者の父の手記。
彼女は、程度の差はあれ、父さんたち大人が一般的に「普通」と呼んでいる子どものようです。この結果は鑑定や調査の限界だろうか。それとも「普通の子」でもこんな大変なことを起こしてしまうということだろうか。父さんには分かりません。
普通、って何なんでしょうね、御手洗さん。私にもわからないのです。
この子達の親と言ってもいい歳になってるというのに。
私はどうして何とかここまで来られたんだろう。
村上春樹がやはり「書かないと整理がつかないから書く」と自著の主人公に言わせていた記憶がある。
彼は、暗いところにあるものをみんなが持っていて、それをどう片づけていくのか、という話ばかり書いているように思う。
あれまー。TBどうもです。
まあ、世間様は「ひどい世の中になったもんだ」と公言することが
サインや防御壁だったりする。
言語は言語。いくら正しく説明しても解釈の違いはどうしようもないでしょう。
投稿情報: yuki | 2004年9 月18日 (土) 00:59
コメントありがとうー。
それでもできるだけ正しく説明したいんだよね。
正しく伝わらないかもしれなくても。
投稿情報: mumuZULE | 2004年9 月18日 (土) 06:52
仕事ではかなり最適な言葉で正しい説明をされていると思いますよ。
客観的に見てて。
まあ、今度飲みましょう。
投稿情報: yuki | 2004年9 月18日 (土) 15:44