子どものころは京都にいて、思春期を東京で過ごしたので、家庭内では関西弁、外では東京弁という「バイリンガル」だった。転校後わりとすぐの日記に、敬語についてのとまどいを書いた覚えがある。書くことは転校前から得意だった。
結局、大人になるに至るまでの「社会」は東京にあったので、難しいことを考える時に使う言葉や目上の人への挨拶などは、すべて標準語で習得してしまった。30歳を超えるまで関西弁での敬語がまともに使えなかったが、前の夫が同郷で、夫の実家や友人とのやり取りがあったことで、再習得した。というか、標準語を関西弁に翻訳して使っていた。関西訛りの標準語、という方が正しいか。
そもそも意図を正しく伝える、というとき、私はスムーズに熱っぽく語ることはできない。口から言葉を吐き出す前に一拍置いて、頭の中で書いてからしゃべる。
よく「ネットだと相手の顔色や言葉の抑揚が分からないから、やっぱり会って話した方が正しく伝わる」というけれど、私にとってはこの条件が当てはまるのはある一定以上に親しい間柄の人だけだ。しゃべって誤解されたことは数知れないけれど、書いた言葉を誤った意図で受け取られたことはほとんどない。
で、なんでこんなことを思い出したかというと、ダンナが「仕事先にバイリンガルのタレントの卵が来てるんだけど、しゃべりがバカっぽくて頭が痛い」とかいうメッセを飛ばしてきたから。習得した時期と機会によって、しゃべれる語彙って変わるんだよね。案の定、卵ちゃんは敬語や難しい会話は中国語で考えてから日本語に頭の中で変換してしゃべっていたらしい。私の数年前までの関西弁は相当アホっぽく聞こえたに違いない。
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